□「異なりを認める」という事について・・・

人間は、それぞれ人種も違えば顔も違う。性格や大切にしているもの価値観や境遇、一人として同じ人間は存在しない。

心理的ストレスはどうして起こるんだろう? ストレスには様々な種類が考えられますが、

・健康上のストレス

・経済的または仕事上のストレス

・家族を含め人間関係のストレス

などが考えられます。

現在まずまず健康で、経済的にも、そこそこ安定している方に多いのは人間関係のストレスではないでしょうか?

異なりを認めつつ・・・・というのは、

人間それぞれ考え方も違う、大切にするものも違う。それは人それぞれの個性であり、特徴であるわけです。

自分と意見が違うからといって、相手の言動を否定してしまえばこれは 「異なりを認めない」 と、いう事になります。

私はこういう考えだ

あなたの考えはそういう考えなのですか。

私が大切にしたい価値観はこれです。

あなたが大切にしている

価値観はそれですか。

なるほど・・・

と、言葉で言えばこのようなことが 「異なりを認める」という事になるわけです。

ではこの 「異なりを認める」 という事を阻害しているものは何でしょうか?

それは他人でしょうか?そうではないはずです。自分なのです。

言い換えれば、異なりを認める という事は、自分自身の問題であり、他人は関係ないわけですから、自分が成長し変わればそれで済むことです。

●他人を理解する能力を養う

言葉のコミュニケーション力や洞察力など

●自分の感情をコントロールし理性で考える能力を養う

感情は楽しく生きるために有用なものであることは間違いないのですが、時として厄介な問題も引き起こす心でもあるのです。

●「我」をいったん隅っこに追いやる「間」を作る

我とはなんでしょうか?

最終的に自分はこうだ・自分はこうしたい、という感情を伴った欲求が我ではないのでしょうか?

すなわち自分本位の欲望と言い換えることができるのではないでしょうか?

●自分を客観視できる能力を養う

自分の理性と感情の両方を、第三者の目で、客観的に見る精神の能力が自己客観視の能力です。

この自己客観視の能力は、とても重要であらゆるときに必要とされることが多々ある能力です。

このような能力を養う事によって、「異なりを認める」という事ができるようになります。

もう一つ、大人には至難の業ですが、小さな子供のように自分と他人・外界との境界線が薄く、受容する能力にたけている場合。

理想的には、このような人物像になることが究極の方法といえるでしょう。

話はもどりますが、異なりを認めたならば、それだけではいけません。

もしそれで終わってしまうと、あなたはあなた・私は私 と、そっけない関係になって、個々の生き方・生活の仕方になってしまいます。

もし家庭の中で、このような人間関係になってしまうとするならば、自由にできる 干渉され とやかく言われずにすむ・・・という利便性は得ることができます。

自分は自分・パートナーはパートナー・子どもは子ども・・・・・とそれぞれが別々の人間になってしまい、そこには共感・共生・創造・愛 といった人間には欠かすことのできない幸福感を享受することが出来なくなります。

そこに必要なものが、 

「一つを共に生きる」 という関係です。

一つ・・・というのは、自分が身を置いている人的組織という事が言えます。

家庭・地域・学校・会社・・・ひろくは社会 という事です。

この自分が、その時々で身を置いているグループの中で、「共に生きる」という発想です。

「共に生きる」 とは、家庭なら家庭、職場の課・係・など自分の範疇の人的関係の中で成長するために・安定するために・発展するために・創造していくために・組織がうまくいくように、

お互い共通のもの・目標・目的・をもって、お互いの異なりを生かしあい・力を合わせ・価値観を共有し、

一緒に手を取り合って、頑張っていきましょう!・・という事です。

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次回③に続きます。